○文章とか(LOG)

[2016/12/28]

もう今年もおわりのようでして。

なぜか知らないけど、世の中は急激に変化していて、何がなんだか分からないって一年だった。それまでの価値観がすっかり無駄になっちゃった気がするな。

結局のところ、まったく無駄にならないものというのは、身についた経験なんだろうなぁ。(たとえば)10年前には分からなかったけど、今となってそのことを知るのでした。他人の言葉を鵜呑みにしちゃいけないんだな、ってことじゃないでしょうかね。そして、他者から学べる価値あることとは、たぶん言葉以外のものだ。

それではみなさま、良いお年を。



[2016/12/27]

案ずるより生むが易し。

先週、youtubeの自撮り動画をつくりましてね。なかなか面白いじゃありませんか。食わず嫌いってイケませんねぇ、ホント。

内容ですが、即興で作った曲を歌ってしまうという、ちょっと意味不明な気もするのですが…まぁいいでしょう!(納得)。

第2回の動画もupするので、そろそろ視聴したほうがイイんじゃないでしょうかね。
非常に為になる話が満載ですよ。



[2016/12/21]

最近のことですけど。わたくし男ネコマル、ユーチューバーデビュー(!)の準備をしてまして。

ホント、よく言われるんですよ…「Youtubeの撮影ですか?」とか「役者なんですか?」とか「どうやって生活してるんですか」とか、果ては「どこで寝てるんですか」とか。

あのねぇ、猫に質問するときは、まず自分のことから先に語るべきニャんじゃないでしょうか。それって、世界の常識ですYO!

というわけで、今後は、

「はは😉。わかりますか。困るなぁ〜😉。そうなんです。youtuberやってて役者なんかもしてるんですYO(=^ェ^=)

って答えるようにしようかなって思います。
まったく何やねん。ぶつぶつ…。



[2016/12/15]

多分誰にだって、自分の意思を強く外部に示したいときがある。思春期と呼ばれる頃は、自己の内面に複雑な葛藤を渦巻かせているものだろうし、それは快適とは程遠い ものだ。

そして自分の意思をぶちまけたい時というのは、それってつまり、不快感を募らせてるってことだろう。あらゆる生き物に共通するのは、不快感に反応をみせること・・・安定を求めて変化を起こすのである。

最近発見したこと。

それは「嫌う・否定しようとする」感情とは、おもに自分の惨めさを隠す反応だということ。その感情には何の合理的な理論もなくて、自分のプライドを守るために間に合わせの理論がでっち上げられるのだ。

これらのハナシには結論が見当たらないけれど、ひきつづき意識していたいことにゃのです。



[2016/12/6]

思いついたときに書く方がいいようです。というのは、ここの文章のこと。
よく「〜飽きられる」なんて言いまわしがありますが、それについての話を。

それまでずっと定番だった商品(とかサービス)があった所に、他のものに定番が移りかわる事があります。よくそういう時に「飽きられたので消費者のニーズが変化した」なんて言葉が使われたりします。

でも、それは本当かなぁ?
なんとなく感覚的なことだけど「嫌われた」というのが正確なんじゃないのかな、その、飽きられたんじゃなくて。人は、自分の判断についてネガティブな感覚をもたれたくないから「嫌った」んじゃなく「飽きた」と言い換えているだけで。

好かれる、それが始まりなら、嫌われる、それが終わりなのだ。ニャンてこった。



[2016/12/1]

とくに書くことがないなぁ。

書けることはあったとしても、書きたいことがナイのです。困りましたね。でも、じゃあなんで文章を書くのか? そんなの簡単なことで、コミュニケーションをするのが生き物の習慣だからなのです。たとえミジンコだってソレをするのです、多分。

困っているときには誰かからの助けがやっぱり必要だし、日々の暮らしにおいても、食品が流通してることだって意思疎通の延長の出来事なんだろうし(アニメなんてコミュニケーションの記号化の最たるものだ)

言いたいことは、(理屈をコレクションする)大人になりすぎるんじゃないよ、ってこと。多彩であること、それが本当の大人の姿なんじゃないのかなぁ。私はそう思うのです(やっぱり書くことがなかったや)



[2016/11/24]

この所は、声の録音〜編集ができるよう、せっせと準備をしているポコニャンです。

さてさて。

いかにもアニメーション風の発声、声のトーンというのがあるのですが(高い声というか、ノドを使った音というか)。実際に録音をしてみて、何となく感じたことがあります。そもそも、アニメならではの発声って不思議ですよねぇ。

ネコマルさんが感じたのは、それは「言葉が聞き取りやすいから」そうなっている。または、「アメリカから伝わった初期のアニメがダミ声(ノドをつぶした発声)だった」ということ。そんな所じゃないでしょうかね。

(ごう)にいっては郷にしたがえ。

ところで、アニメ系のお店などに足を運ぶと、女性の店員がアニメ声でびっくりすることがあるのですが。それならともかく、ペットショップでアニメ声の店員さんがいて、ちょっと驚いたことがありました(ちょっと、というか、ずいぶん驚きました)

まぁ何ですかね、聞いたら驚くような発声が常に使われていること、それがアニメの音響的な特徴なんじゃないかと思うのです。

もえもえ・きゅ〜〜〜ん❤



[2016/11/18]

さて。さいきんアニメーション作りにいそしんでまして。

まぁ、とくに文章にするようなことはないのですが、その時々の状況というのを記録しておくのは良いことなので、書くようにしてます。そして、とくに状況が良くない時こそ定期的な記録は(問題解決などに)有効なんじゃないでしょうか。

ちなみに男ネコマル、
今までアニメーションを作ってみようと考えたことはなかったのですが、去年くらいから「アニメの勢いがハンパないから、一度制作してみたいなぁ〜」と感じておりました。それで今年のアレですよ、アニメーション映画のほしのこえじゃないや、君の名は。の驚異の人気におどろきまして。時代の転換期にいるんだなぁ・・・と感じてしまいました。

(話がながくなるので、それはそれとして)

そのアニメの作業、
いやー。ちょっと試してみて感じたのは、デスクワークだけで作業がどんどん進むことにびっくり。あとは、ウデを上げるのがタイヘンなジャンルやなぁ、と思いました。こんなこと取り組んでたら、一生のほとんどがアニメの作業だけで終わるんじゃないのかなぁ。

まぁ、そんなこんなで、自主作品の準備にとりかかってます。年内には音がついたバージョンができるかな?

楽しみじゃ!



[2016/11/1]

時々思い立って、工作で使うものをせっせと買い揃えてたりするのですが。

ちょっと前は、ドリルの刃を0.1mm刻みで買い揃えていました。とはいえスグに使う作業もなかったので、現状だと1.5〜4.0mmまでが揃ったのかな? まぁそれでも、折れなさえしなきゃ再研磨しつつずっと使えるのでイイんです。でも2.5mm以下の細めの刃は、研ぐのムツカシイよなぁ。

それで最近集めてるのは、小さめのネジでして。2mmくらいから3.5mmまでの色々な長さのものを、ハンズとかホームセンターに行くたび買い揃えてます。ちなみに、ドリルの刃よりかは安価なので気楽なものです。だいたい一袋が100円くらい。

でもなぜ、やっばりスグには使わないのに買い揃えるのか?
それについて、

ネコマルさんが長い年月工作に携わって理解したこと、それは。自分で所有していない部品(とか工具)というのは、あるとき必要に迫られたとしても選択肢に入ってないということです。つまり、お店に陳列されてるのを見慣れてるだけでは、それは「選べる状態にある」とはならないようなのです。不思議ですねぇ。

たとえば、太さが2.6mm/長さが10mmのタッピング皿ネジを買って使ったとします。そしてそのネジは10本くらい余りました。それから後日、2.3mm x 8mmの同種のネジがちょうど役立つ場面があったときに何が起こるか? 「とりあえず、手持ちにある2.6mm x 10mmのを仮で使ってみて、明日にでも少し短いものを買いにいこうかな?」・・・とはならないのです。不思議ですねぇ。「なんかムリっぽいから諦めたほうがよさそうだな」というのが現実に起きてしまうことなのです。

もういちど書くと、ネジ一袋は100円くらいで、ちゃんとパーツ棚に整理しておけば10年後でも価値はそのまま。そして「なんかムリっぽいからいいや」と結論づけてしまう場面でも、数千円の部品と収納のおかげで別の選択肢がうまれる・・・そんな楽しみこそ、男のロマンにゃのであります。

まぁ、細かい理屈は分からないんだけど、工具と部品をコレクションするのが好きです。



[2016/10/30]

今日はぎっくり腰が再発して寝てました。うぅ…。

まぁ、体でも心でも、病気なら休めばいいのです。ロボットじゃないのですから。それにしても最近多いですね、ギプスはめた人とか、杖をついてる青年とか。やっぱり、アレの影響なんですかね。ニャンゲンとは罪深い存在やなぁ。

さて。
最近なんですが、男ネコマル、OpenToonzというデジタル・セルアニメーションのソフトを学習中です。これまでアニメーションは作ったことがなかったんですが、このソフトの使い勝手が良さそうなので興味が湧きまして。

少し使った感じだと、手描きの線画で、そして長編(分業)に向いてるのかな、という印象があります。アニメ、今後も規模を拡大して続けられるといいんじゃないかと期待してます。

年内に音がつけられるとイイのですが。どうかなぁ。楽しみやね。



[2016/10/26]

ネコの日常には危険がいっぱいありましてね。

どうもごぶさたしてます、ネコマルです。先日なんですが、交通事故にあいましてね。いやはやあっけない一生でした・・・(まだ死んでない)。というわけで、腰痛がやっと治ったかと思ったのに、またしても体が痛いのでありニャス。何なんでしょうね、ホントに…。

さて今日の文章ですが、
やっぱりこれといって書くことがないので、俳句でも詠みます。

 ほうしゃせん 日本のおかげで 濃くなった

それではまだまだ週の中頃です。がんばろー!



[2016/10/20]

まだ少し腰が痛いので困っていまして。
「困るネコ、つまりコマルネコ印のネコマル音頭」と覚えておいてください。ネっコマル〜音頭ォ〜🐢🎵

…それはともかく、

前回のしょうもない文章の続きです。「恨みを抱えることは悪なのではないか」という話にすりかえて続けますと、まぁ、悪とは何ですか?っちゅう話でもありましてね。何なんでしょうね。思うに悪とは「人を追い詰めること」じゃないかと考えられるのです。

この場合の人とは「相手」と「自分」の2パターンが考えられますが、相手を追い詰める傾向にある人というのは、自分も同じように追い詰めてしまう傾向にあるということです。つまり、そういう習慣があるってことです。悪い習慣であれ、良い習慣であれ、人は単一の習慣に縛られるんだから、自分を調子よく維持するためには恨みを抱えることはマズいねってことです(ここでの推論は)

じゃあその習慣からどうやって逃れるのかって?

別の習慣をもつニャノダ!!(=^ェ^=)!



[2016/10/15]

しばらく体調を崩していたのですが、本日より通常営業に戻りました。やれやれ。

何の偶然なのか、ぎっくり腰がブームのようですが(Twitterをみてみる限りでは)。あんなにも痛くて動けないものだとは知らなかったことと、ちょうど寝込んだ日に通販の荷物がいつくも届くというダブルパンチ…。さらに警察まで訪ねてきて代筆してもらうという謎の1日でした。

それはともかく、

最近感じたことがありまして。それは「この人は良くない欠点があるなぁ」と感じることがあったとき、その代表的なもののことです。それは「恨みをもつ習慣」がある、ということ。恨みを抱えるのはどうでしょう、そうした習慣はマズいですねぇ。

習慣として恨みを抱える人というのは、どうやら「怒りをもつことは悪である」という判断によって、怒りではなく不満を恨みとして抱えてしまうようです(お気の毒!)

この話の続きは、次回にするとしましょうか。紙面(?)が尽きましたのでね ▼・x・▽



[2016/10/5]

皆さまお元気ですか。さすらいの旅人・ネコマルです。

最近、ようやく都内のロケハンを再開しまして(ロケハンって和製英語なんですね。ロケーション・ハンティング)。まぁ、いわゆる不審者なんですけど。

撮影場所の下見というのは不思議なもので、車とか電車それからGoogle Mapなどで確認した情報だとぜんぜん現実的じゃなくて。その時間帯のその曜日・その季節にそこの場所に足を運ばないと、実際の様子は把握できないようです。まぁ、その半分は心理的な影響なんだと思いますが。

そんなこんなで、下準備@屋外については夏は休みってことです。そんなこんなで、秋というのは芸術の秋なのです。今がいちばんいい時期なのです。
はやくしないと冬になっちまうぜ。



[2016/9/24]

先日の文章。9/16の内容に「部屋の片付けをスタート」なんて書いてましたが。

「そんなこと書いても、なかなか進まないと思うけどね…」なんて心配とは裏腹に、どんどん部屋が片付いております。ワタクシの性格から言って、ちょっと考えにくいのではありますが、とにかく急ピッチで進んでます。ありがたや…。

その取り組みのなかで大活躍しているものがあって、それはマキタのドライバードリルと掃除機のコンビ(DF030DとCL102D)なのであります。それらは共通の10.8Vリチウムイオン電池で動作するもので、毎日使うたびに幸福を感じてます(大げさ)。ちなみに掃除機には色々なバージョンがあって、バッテリー内臓のものもありますYO。

購入する前、なぜか「きっと毎日必要になるぞ…」という気がしていたのを覚えてます。不思議やねぇ。
皆さまにおかれましても、いい予感がありますように。というネコマルさんからのありがたい言葉で、ごきげんよう。



[2016/9/16]

もう9月も中旬とは。早いな〜。

早いといえば、今住んでいるマンションに引っ越してきて1年ちょっとが経ったんだけど。未だに引っ越しの片付けが3割くらいしか済んでいない状態…。これでも努力はしたんだけど、これはマズい。

そんなことで、昨日くらいから覚悟をきめて部屋の片付けをスタート。今月中に終わればいいんだけど、いや、終わらせなきゃ新しいことが始められないのです。せめて、今年中には終わらせないと…。うぅ。

なんでこんなことになっちゃったんだろうなぁ。



[2016/9/7]

「正しい」
その言葉には、悪魔の気配がある。

この世に完璧な人間などいないのです。なぜなら、観察を繰り返す中で、その兆候はみなれなかったから(観察は科学の基礎)。

もうすっかり疎遠になっちゃったけど、過去に覚せい剤の使用で刑務所に入れられた知人がいる。じゃあ彼は悪人なのかと言えるかどうか。んー、どうだろうなぁ。どうなんだろうね。違うと思うなぁ。

ほとんど全ての人が、細い白線の内側を歩いている。広い道のうえにある、2本の白線の間でぎゅうぎゅう詰めだ。誰が言い出したのか、少しでも白線を踏むだけでもなぶり殺しにされるらしい。
それは「正しい」世界の成れの果てやね。

ネットには「正しい」言葉がつづられている。そして、そこには悪の気配がある。



[2016/9/6]

とくに書く事はないのですが、でも、書く事があったとしても大した内容じゃないからね。

夏には、冬に長袖を着ることは考えられないんだけど。ところが冬になると、夏に半袖を着てたことを想像しにくいものです。これって不思議ですよねぇ。
寝ている時に夢をみていると、そこでは目覚めている世界があることに気づきにくいものです。そしてまた、起きている時には、夢での世界というのは何の手応えもなく、無に等しいものとなります。

なにかしらの経験や知識というのは、それが有る者にとっては当たり前のことだとして、それ無しで過ごす者にとっては(その期間はともかく)無知は持続可能なものです。

冬が来ることを知っているグループがいたとして、自分はそれを知らないグループに属していた場合。知らない集団は、どのようにして、知っている集団と接することができるのでしょうか。それって、多数決で対応できる問題なんでしょうか。

「こんなにも暑いってのに、その長い袖のものは何だい?」

ネコにはわからニャイのです。



[2016/8/19]

たまには昔話でも。

これは、ネコマルさんがまだ6歳くらいの頃のハナシなんだけど。ある平日の昼下がり、住んでいた家の近所の道路を、ふらふら〜と歩いておりました。そしてスーツ姿の中年のおじさんが歩いていたんだけど、その顔の表情をみると何だか冴えない表情。その時「あー。この人は生きていて楽しくないんだろうなぁ」と感じて、自分まで嫌な気分になりました。

何でそんなことを覚えているのかは不思議なんだけど、ときどきその日のことが脳裏に浮かぶのです(この話って前にもしったけ?)。あと、その他には、

同じく6歳のとき、学校でのこと。珍しいことに、教室から外に出て「植物の絵」を書きましょう、という授業がありまして。まだまだ不慣れな小学校での生活、絵に何の意図があるのか戸惑いつつも、雑草か何かを鉛筆で描き写しました。

それから教室に戻ってからのこと。先生が「上手に描けている絵がありました」とか言いながら、ネコマルさんが書いたものを皆に見せるではありませんか。曰く、葉が前後左右に立体的に描かれていることが良いとのこと、「おやっ、先生はそんな細かい所まで見てたのか」と驚いたものです。

あ。そんなこともあったからか、小学1〜2年生のときはクラスの友人たちに、漫画の絵を見本にしてノートに大きく書き写してくれと頼まれてたなぁ。お礼にお菓子をもらったりしながら。……そして時は流れ、今ではすっかり怠惰な大人(のネコ)になっちゃった。

それにしましても、まだまだ暑い日が続きますね。



[2016/8/10]

情報には2重の意味がある、という話。

ひとつの例。ある話をした場合に何が聞き手に伝わるのか?

『先日カレーを作ったとき、材料に挽き肉を使いました。思い返してみると過去に挽き肉を使ったことはなかったんだけど、これが目から鱗。たいへん美味しく感じました。ぜひ皆さんも試してみてね』
と、この場合。伝えらえる情報の真ん中には「カレーに挽き肉は美味しい」、または「カレーが好きでときどき作る人物」、もしくは「ブロック肉が良いという先入観」などがあるだろう。

しかし情報の外側には「食事のことをよく考えている」、「自分の判断でバリエーションをつくった」、もしくは「他愛ないことを話してみようとする」、「争いのない国で生活をしている」・・・といった意味が意図はともかくとして含まれているだろう。

これは北風と太陽の話とおなじことで、聞き手にとっては「〜しなさい・したほうが良い」「〜だけはしてはならない」のような話よりも「〜で楽しかった」「〜で困りました」のほうが受け入れやすくなる。それは、その2重の意味の外側、その情報が多いからだろう。そしてその多さというのは「もし自分が試した場合にどうなるか」という最も知りたいことについて、話し手に自己を投影すれば良いだけの状態が作られていることが一番の理由だと思われます。

さて、

天皇陛下が「お言葉」とする放送を行ったことについて。テレビは特番を組まざるを得なくなり、NHKは編集をして放送(複数のテロップを重ねる・色調の変更?)をし、世界のメディアは速報を流す。多くの人が関心をもち理解を示すのは、そこに、生き方を変えられない自分を投影しているからではないかと思いました。というお話(ながい)。



[2016/8/4]

通販で依頼した商品が届くこと、それが現代風の楽しみである。

正確には「以前までは楽しみだった」という話なんだけど、わりとどうでも良いことでもある。つまりAmazonもネットも飽きちゃったってこと。飽きたらそこでおしまい、ハングリー精神を散財してしまったら、そこで終わってしまうのだ。

あと15年もすれば、(まるでインターネットと同じように)情報ではなく今度は物流が無料で行えるようになる。その未来が避けられることはまず考えられない。そしてその時に何が起こるのか? それは案外と簡単なことで「モノを所有することが珍しいことになる」ってことだ。

現在は、いろんな物を所有して自分の敷地に並べている状態。そしてそれが自分の敷地外に保管してある状態に変化する。つぎに、同じ所有物は共有すれば良いという段階を経て、使用権だけで使い放題になる。

もうあとは遊ぶことと死を待つことが日常となる。おや、今と何も変わらないんじゃないだろうか。



[2016/7/31]

欲があると判断を誤るとして。

判断をしなければならない状況にあるとき、多くの場合はAとBの比較をすることで結論を導き出すだろう。しかし現実には、AとBの2種類に分けることが難しくて、そのために「結論がだせない」もしくは「不利な結論をだす」ことになってしまう。

しかし欲に囚われなければ、AとBの問いにたいしてCAとCBとCEの判断に変更することができるだろう。そもそも欲を満たすことが目的であれば、手段としての問いを拡張することは手段として問題にはならない、ということだ。

その時の欲が何か、その時の手段AとBが何か。もしそれらが紙に書き出せないとすれば、それは地図のない冒険になってしまうことになる。そして、インターネットの情報の海には地図は存在しないだろう。



[2016/7/29]

ハチワレと呼ばれる毛の色をしたネコがいるらしい。

まぁご存知のとおり、ネコというのは世界一カワイイ動物ですけれど(すみませんねぇ)。そして毛の色や模様、毛の長さなんかにも色々と種類があるようで。まぁ、黒と白のツートンカラーの我らが(?)ハチワレなのが、このネコマルさんという訳です。

今日書きたかったことはこれで以上なのですが、他に何か聞きたいことはありますか?

あ、書きたかったことを思い出しました。

ドラえもんって、今日気づいたんだけど、よくみれば彼もハチワレですねぇ。灯台下暗し、世界一有名なハチワレはこんな身近なところにいたという…それではみなさま良い週末を。



[2016/7/28]

いま世間では「ポケモンGO」というスマホゲームが流行っているようで。

やりたい人はやればいいと思うし、やりたくなければそれで良いと思うのですが。とにかく「面白いゲームがスマホで無料で出来る」ことは興味深いのです。

本当のゲームというのは、その人を自由にし、たくましくし、誇らしくするものだろうと思います。どのゲームがそうなのかは、全てを試してみなければ本当のところは分からないのであります。



[2016/7/25]

必要なことは、やりたくなるように出来ている。

たとえば食事というのは、毎日飽きもせず繰り返したくなるようになっていると思う。何故だろうか。休息や睡眠だって同じである。それは何故なのか?

もし誰かがロボット、もしくは人工生命体を作った場合。その初期の段階では「自己エネルギー供給」や「自己メンテナンス供給」については目をつぶって組み立てるのではないかと考えられる。なぜなら、それは制御が余計に必要になっているからで、まずは期待する基本的な仕組みが動作すれば良い、ということが優先されるはずだからだ。

やりたいことがあったとしても、しかし、奴隷さながらに(論理的には)強制されている日々がある。つまり、人類は未だにそうした初期の段階にあると言えるのだ。



[2016/7/22]

ちょっと困ったことに、皮膚病に悩まされている。

まぁアレだ、気が遠くなるほど生きなければならなかったのが、人生もといニャン生の演出がスッキリ短くなったとも言える。そんなことはないかな。どうだろう…。何のハナシだろうか? そう。放射線の影響を疑っている(周囲の目を気にして言えないのだ)。

めんどくさいから問題から目を背けていても、症状のほうは神経を逆撫でしてくる。今更ながら重い腰をあげて対処するしかないね。そして、体の仕組みを観察しているんだけど、それについても少しずつわかってきた。そして、それはとても面白い。

病んだ社会と蝕まれる心身。勉強をするのによい環境なのである。



[2016/7/2]

電子回路を作ってみると、1つ1つの部品というのは随分と安価なことがわかってくる。
それは別に電子回路に限ったことではなく、たとえば木造の家の柱なども長さ1mあたり千円以下だったりと安く、むしろSPF(カナダ産?)の柱のほうが高価な印象がある。

何が言いたいかといえば、自分で作れば物の価値がよくわかるってこと。他人の仕事をみていても結局何も分からないままだ。そして世の中には物事をわかりたがる奴らがいる……それは俺たちのことでもある。

無数に存在する生き方の道は、現在、その一つの道に集約しつつある。無数にいる人々の心の内側は、実は誰にも止められないのである。



[2016/6/21]

正しい知識さえあれば、問題なくことが進められる。

ということがある。
ところが、その正しい知識は身の回りのどこにもないのである。ゆえに、問題なくことを進めることができず、ことを進めるため大掛かりな取り組みが必要になってしまう。

でも、どこにもない、誰も実体を知らないことなのに、なぜ「正しい知識」が本当は存在すると感じるのだろうか? それこそ不思議なことだ。誰かに聞いた訳でもなく、文章で読んだこともないもの。

いや、きっと何処かでその声を聞いたのだ。音もなく、姿もない、その知識を知らすその声を......。



[2016/6/1]

とくに書くことがないのですが。毎度ながら。

最近、いままで作ったことのない料理を試しに作ったりしているんだけど。やっぱりね、慣れないことをするのが一番楽しいんだと思います。そして、常々思うんだけど、人が夢中になるのは得意なことではなく「不得意なことに夢中になる」のだと思います。

おっと。

もう眠たくなってきたから、話は途中だけど…この話のつづきは適当にご自身で考えてくださいな。どのみち、たんなる世間話にゃのですから。



[2016/5/25]

とくに書くことはないけれど。ボケ防止のために…何か書いてみるのだ。

去年に引っ越しを済ませてから、部屋の片付けがちっとも進んでいなくて。困ったもんだ。ところが最近になってようやく片付くきざしが見えてきたんだけれど、それまでとの違いは「明確な目的」を持つかどうかにあるような気がしている。

一例として、キッチンを片付ける場合だと、

「ココをキレイにしたい」じゃダメで、「この場所でラクに計量したい」とか「まな板の置き場所をカンペキにする!」みたいなアプローチがイイようだ。それって何が違うのかな? 多分だけど「いくら金額がかかってもいいから実現させよう」ってことなんじゃないかな。

難しいことについては、要求を絞り込めば 解決は早まる。そして現実というのは、要求の集合なのかもしれない…。



[2016/5/22]

物事には順序というものがあるようでして。

トイレで用をたしてから、紙でふきふきする。とまぁ、順番としてはそれでGoodなのですが。その順番が逆だったら困りますよね。または。戦うときの順番としては、相手を倒した後で、その相手が敵か味方か確認する…のは逆でして。倒すべき敵だと判断してから倒しにいくってことだ。

何かをするとき、それが仕事でも料理でも何でも。さっきのハナシだけど、まさか味方を倒してたりしないか心配ですよね。(話はとんで)この先、人工知能が個人のアシスタントになれば、自分の行動を分析して、住環境からどのような影響を受けているか知ることになるだろう。

それが禁じられていなければ…だけど。



[2016/5/14]

読書というのは何であるか?

もちろん、それは、文章を通じてその書き手てと出会い、それをたのしむ行為であるけれど。そしてそこに書き紡がれた何かを知り味わう。いや、他にもいろんな解釈があるだろう。

読書というのは何か?

それは、紙の両面に文字を書き連ねる、その人の行為のけなげさを愛でること。何百年、何千年と続けられているその習わし。書物とは、知らない世界をのぞきこむために作られた他者の手帳なのである。



[2016/5/5]

今日はこどもの日だそうで。

ただいま夜中の3時なのですが、さきほど白猫のみーちゃんが遊びにきてカリカリを出してあげると、さくっと食べて出かけちゃいました。小腹が空いたんですかねぇ(ちなみにカリカリだけじゃ食べなくて海苔とかつお節のミックス)。

btw, 自分のことってよく分からないものでして。というのは、
twitter界隈でオーディオ系の電子工作がにぎやかなので、ネコマルさんも同じようなことをしようと考えるも、どうにも気が進まず。何で気が進まないのか理解できなかったんだけど、ひとつ心当たりが。

しばらくオーディオ回路でハンダゴテに触ることもなかったんだけど、よくよく思い返してみると、その昔には業務用の汎用品(?)や特注品ををいくつか作ってはいたけれど、自分の興味で作ったことは殆どなかったような気も…ってことは、もともと好きじゃなかった可能性もあるな…。

そんなこんなで、プログラミングが絡むようなデジタル回路が好きです。



[2016/5/3]

乱れた心に乱れた言葉。

1人の人物が、標準的な納税者かつ消費者であり、法と秩序にも長期的に配慮していたとする。それは言い換えると、適切に勉学し労働し家庭をもつことでもあるだろう。しかし同時に問題が起こる。

納税が十分ではなく金銭を経由する消費を怠り、法のウラをかき秩序を壊しつづける者がいる。政府と言われる企業群にとってそれらは悪である。

創造的な日々というのは、後者への旅という意味でもある。ナイショなのである。



[2016/4/24]

クリエイティブ
クリエイター

もう10年も20年も昔から言われてたキーワードだけれど(多分)、その言葉の定義はとても曖昧だと思う。現在においては「pro」という単語も訳がわからない。「new」と同じようなものでまがいものというニュアンスが50%ほど含まれているだろう..。

そのクリエイティブの定義だけど「鼻の効く商売人が群がってくるもの」だとすれば良いんじゃないかなぁ。もしそうだったら、クリエイターになんかなりたくないだろうね。才能のジレンマとはそういうことだ(お気の毒なのである)。

…嫌な星に生まれてきたものです。



[2016/4/22]

プリンスがこの世を去ったというので、何だか驚いてしまった。

去年だったか、小さな文房具店で買い物をしていた時のこと。店内に流れるBGMからPrinceの曲がながれてきた。

「おっ、プリンスの曲だ」と思っていると、店のおばちゃんがあわてて奥に走ってゆく。…あわててUSENのチャンネルを変えているようだった。ははは。おばちゃんには悪いけど、その出来事に嬉しくなってしまった。

神経を逆撫でする音楽家なんて、もうそんな多くはいない。退屈な世界にこんにちは。そしてさようなら。



[2016/4/13]

みなさまお元気ですか。ネコマルは普通です。でもちょっとカゼ気味です。バカはカゼひかないのにね。

とくに書くことないんですが…じゃあ、みそ汁の具について書いてみましょう。つい先日からみそ汁にニボシを入れるようにしてみたんですが、けっこう味のバランスが変わりまして。

今までは水400ccに味噌30gで良かったのが、ニボシが入ると味噌30gのままだと水が500ccに増量しました。それから油揚げとの相性がイマイチみたいなので入れなくなり、かつお節もナシになりました。さらにニンジンもあんまり合わないような感じ。とまぁ、シンプルになったのに美味しいです。

どうでしょう、ネコがみそ汁作るなんてすごくないですか?



[2016/4/4]

「大は小を兼ねる」

そう、兼ねちゃうんですよ。でも、そうは言うものの案外そうでもない時もありまして。ひとつ語ってしまいましょう。

たとえば文具だと定規なんかがそうです。15〜20cmくらいのものとか、あとは30〜60cmのものなどあるけれど、60cmのものをひとつ買っておけばイイなんてニャンゲンはいないでしょう。それはなぜか? なんででしょうねぇ...。

それはそうと、
このまえ短い定規が必要だったので30cmのものを半分に切ってみました。長さは11.5cmと19.5cm。なかなか使いやすくてオススメです(?)。そんなわけで、今日もいいことあるかなぁ。



[2016/3/24]

大は小を兼ねる、という言葉がありますけれど。

ニャンゲンがこの世界を無事にいきてゆくために必要なもの。それは何かと考えたとき、その道は2本に分かれていて…片方の道が「大は小を兼ねる」だとすれば、もう片方は「適材適所」になるだろう。

ニャンゲンが心からの笑顔をもっていきてゆくために必要なもの。

それは、あらゆる不愉快なものを消し去る武器などではなく、小さなトゲを上手に抜くことのできる道具だろう。手のひらに軽く収まるような、ほんの小さなもの。

ネコは知っているのだ。



[2016/3/11]

えー。告知です。

映画ワークショップですが今月も行いたいと思います。3/26(土) 13:00〜16:30の予定で、参加費 1,000円です。今年はライティングを中心に実施してます。ネットにも本にもどこにも書かれてないけれど、なのに基本技術なことを学んでいきます(まぁいつもそうですけれど)。

ところで、じゃあ何でその技術をネットに書かないの? ってことですが、ネットに書いてあることは「タダで教えられる内容」「金額をつけて販売できる情報」「宣伝のため」なんだけど、そのどれにも当てはまらないのですねん。ニャンだろうねぇ...。

それにしても撮影って奥が深いなぁ。
まだまだ寒いですなぁ。



[2016/3/2]

最近は休みなしで作業しているので、CRAFTのコーナーを書くだけの心の余裕がありません。ゴメンネ!

それはそうと「クリエイター3種の神器(初級)」って何かなと考えたとき、

・レーザープリンター
・ハンダごて
・ボール盤(卓上ドリル)


じゃないかなと思いました。順不同かつ主観ですけど。

これは金額の問題でもなくて、その3つを買っても5万円以内に収まるんだけど、実際に所有するのはちょっとハードルが高いかも。というわけでして、今後のCRAFTのコーナーはそれらを絡めた内容を書いてみようかな。お楽しみに〜。



[2016/2/26]

先週末、映画ワークショップのこと。

これまで何回か実施してきたんだけれど、今回はじめて露出計を駆使してみましてね。照明比をみながらレンズの絞りをみきわめて撮ったものは、やっぱりしっかりしてます(さらに要らぬストレスも減るんじゃないかなぁ)。

日中屋外のシーンでは、一般的な入射式のメーターだけでなく反射式のものがあると便利でして。まぁ、よくあるのが空の明るさ(一番明るい部分)とメインの人物を測光しつつ、ハイライト部を白く飛ばしても良いのか/それとも飛ばさずに色彩のディテールを残したいか…みたいなバランスを考えるというもの。

とりあえず今年はライティングについて鋭く掘りさげようと思ってます。なんせ、映画ワークショップなもので▼・x・▽



[2016/2/22]

10年くらい昔のハナシ。

いや、それよりも昔の話からはじめると、とある試作品をもって知人とアメリカ西海岸をウロウロしいた頃がある。そのころのカリフォルニアは徐々に地価があがってきていて、田舎っぽい街並みにもかかわらず東京に匹敵するようなマンションの価格だった(今はそれ以上だろうけど)。

とあるベンチャー企業があつまったガレージでしばらく過ごしていた。自由の国アメリカ——そこで感じたのは、もうこの国は疲弊しているってこと。それを知って暗い気持ちで帰国したネコ1匹。

それから何年かたって東京のビルの中。いまから10年くらい前。

大卒のお利口さんが「まだそんな携帯つかってるんですか」と笑っていた。当時はまだガラケーの頃だ。どうやら彼の携帯は最新式のもので、2画面(?)で便利なキーボード付き(たぶん)のようだった。とても滑稽だった。というのは、どのみちケイタイからは入力ボタンがなくなって、タッチパネル式になる以外には進化の道はなかったからね。そして現在に至る(スマートフォンとMVNOの普及)。

さて、いま現在、これから何が消えるかは分かる奴にはわかっているのだ。でも教えない。(お利口さんに)バカにされるのは不愉快だから。・・・シゴトはいくらでもある。



[2016/2/7]

「科学的にいえば」という言い回しがある。

これって不思議な言葉だと思うんだけど、たとえばAさんの科学とBさんの科学が違ってしまうことも起こりうるのが科学なんじゃないだろうか。だいたいが、能力の高さに比例して変人の度合いも高くなるんだからハナシもややこしい。でも変人は能力が高いとは言えないとおもう。

「科学的」の反対は「好み」になるだろう。

科学的な発言には、その裏付けとなる証拠が必要になるけれど、個人の好みうんぬんの発言にはその証拠なんてものは求められない。つまり手っ取り早い議論には、自分の好みを持ち出すことが合理的になる。それはなぜか? なぜっていうか、そう信じることが好みなんですよ。

はぐらかしてる、とも言うのだった。



[2016/2/2]

生と死がある。

物理的な生き死にがあり、それから、論理的な生と死がある。

今日の文章はとくに意味がないのである。でもどちらにせよ、他者の暖かいハートにふれられなければマトモには生きていられないのだ。ネコは知っているのだ。



[2016/1/30]

今日は体が不調なので寝てました。まぁ、ネコは寝るのが仕事ですけれどね。誤解なきよう。

それはそうと「天才」とは何であるか...? ちょっと考えてみました。
ガンジー星からやってきたキャット界の天才児・ガンジーネコマルことCATネコマルの私(わたくし)なんですが、皆様いかがお過ごしでしょうか(いえ、疲れてましてね)。

一言でいうと、天才とは接した者を変容させられる存在。でしょう。別の言い方をすると「静的な影響力」ですねん。わかりますか? わかりませんか。ええ、明日はいいことありますよ。それでは。



[2016/1/24]

何も書くことがないんだけど、はてさて。では、最近気づいたことなんだけど、その話でも。

センスがいい人、それから、センスがイマイチな人がいるとして。その差がよく表れるところはどこか? ネコマルが思うに、それは「発表するのが好きか嫌いか(上手か下手か)」だと気付きました。

例えば。BLOGなんてまさにそれで、わざわざ仕事じゃないのにあんなものを書きたがるのは「発表したい欲求」があるからで、もしそのブログが大して面白くなくても、多分その人物は平均よりもセンスが良いはず。もしブログの例えで納得できないとすれば、たとえばTV番組を観る側じゃくて、作る側にいる人とかね(TV番組こそ発表の最たるもの)。

結局何が言いたいかというと、今日は何も書きたいことが見つからなかったってことですねん。では、おやすみニャさい。



[2016/1/20]

ようやく冬っぽい気候になってきたこの頃。やっぱりこの国は暑くて寒い所ですな(そんなに他国も知らないけど..)。

それはそうと、今年の映画ワークショップをどうしようか考えているのですが、ライティング・照明テクニックについて回を重ねて行うのが良いんじゃないかと思っています。

ライティングと言っても、あんまり規模をデカくすると少人数では手に負えず、だからと言って小規模な取り組みじゃあ意味がなさすぎるし(楽しくないし)、どうすれば良いのやら。何はともあれ、2月の中旬からスタートする計画です。実現するといいなぁ。



[2016/1/15]

最近、仕事のことで腹がたったことがありまして。詳細については控えつつそれについて書いておこうと考えたのですが、詳細を書かない(書けない)んじゃあ誰かが読んだときに面白くないなと思うので、昨日あった(書いても構わないことの)腹が立ったことを書きます。

もう済んだハナシなんだけど、昨夜スーパーに買い物に行ってたら、信号待ちで停車しようとする車が自分のほうに接触しそうな勢いで向かってきたんです。アレですか、車なんだから歩行者は避けると考えたんですかね? そんな突然のことにちょっとイラっと来たんだけど、まぁトラブルも嫌なのでスルーしました・・・が、やっぱりここは(清く正しいネコマルさんのこと)ひとつ注意してやろうと思いまして。引き返してドライバーに声をかけました。

それから、いくらか心のこもった忠告をしてあげたんだけど(中略)、その相手が警察を呼ぶというので「どうぞ呼んでください」と伝えたかと思うと、いつのまにか彼は通報もしないままその場から消えてました。な、なんやね〜ん!!

と、小市民のびんぼくさい話にて・・・筆を置きたいとおもいます。

今日はいいことあるかなぁ..。



[2016/1/8]

このwebページがスタートしたのは、2014年の元旦でした(先日の文章はマチガイ)。いやはや。たいした情報もないのによく続いてるなと思いますが、やっぱり理由があるようでして。それについてのお話を。

何で続けてるか、何で続けられているか。ちょっと考えてみたんですが、どうやら「日記」を毎日書いてるのがベースになっているようです。その日記は2008年1月から毎日ずっと書いていて、今までで2900日くらい経過してます。つまり2900回も毎日やっていると完全に習慣になっちゃうんだろうね。その、たいした意味がなくても気づいたことを書くということが。まぁ日記なので公開はしてないんだけど。

それからここの更新回数はざっと500回くらい。…別の視点からみると、1回の更新で20文字を打ち込んだとすれば、400字の用紙換算=25ページにもなる(ちょうど10,000字)。もし25ページの文章を短期間で書かなきゃならないとすれば、うまく行ったとしても10日くらいかかる計算になるだろうね。もちろんその成功率は低い。その不慣れなことに毎日かかりっきりで取り組むこともむつかしければ、作業の苦手なところで停滞してしまったり。

回数、それからスピード。これが習慣の良さだ。もし何かが習慣になれば他のことに確実に反映される。習慣の影響力を抑えることはできない(良し悪しともに)。だから、自分が欲するベクトルにむかって、新しい取り組みを行うのが良いと思うよ。でもそのためには、最初に感動が必要なんだろうな。ここが最大のネックになっている現代。

ネコマル様は、さまよって生きることは微塵もイヤなのである。



[2016/1/5]

このwebページはスタートしたのが2013年の元旦でして、3年目となりました。すこしでも楽しんでもらえたら、いいですね。すこしでいいんですよ。ほら、日本人ってだいたいおとなしいから。違いましたっけ?

直感にのみしたがい今まで(まったりと)やってきたのですが、去年の末頃から新たな直感がやってきました。その頃、とくに何もしてなかったんだけど、意思とは無関係に情熱がわいてきたという。いわゆる、運が向いてきたっちゅう訳にゃんです。

多分これからは制欲的に、あれ?せいりょくか…、精力的ににゃんばって行けるだろうと思います。それが何であれ、おおきな価値があり、そして可能性を感じられることに、資金と血と汗と笑いなんかを注ぎ込む予定です。それって、かっこいいよね。

ニャンゲンは心と体、その両方の健康を感じられてはじめて、心をオープンにして生きられるんだと思います。その娯楽や芸術(それからもろもろの水商売)だって、そのことに直接関わるから必要なんだろう。そのこととは安心して生きるってことだ。残念ながら、我々をふくむ過半数は安心して生きてないように見える。安心なんかしてないね、投げやりになっているだけだ。

話がながい、

新年だからちょっと話が長めなんですが、まぁゆっくり進みますかね..😼





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